無配内容のWEB再録です。

 

本書内容は、「死者が死霊となり」「人ならざる殺人鬼がいる」ことが、明示されている舞台内だけで可能な、思考実験の産物です。

参考資料は完全ではなく、氏の原作以外は筆者の記憶の中のため、学術的価値が低いものであることをご了承ください。

 

 

 

九鬼凍刃のケース

   前提

殺戮と破壊を専門とする想師、九鬼は死者を見ることができない。それは劇中でゲールによって指摘されている。

   想師と感覚器

想師は自らの視点を変えることで、見ることのできないさまざまな事象に具体を持たせ、通常は不可能な方法で干渉する者である。劇中では想師の力を使う者(観測者)が普段見ている世界を『現実の視点』と置き、そこから視点をずらした法則の異なる世界を『想念世界』と呼び習わしている。

九鬼と同じ想師である草薙と永次は、覚醒状態から視点をずらした『旋視』によって、死者の霊魂に具体を持たせられている。また、草薙は死者の言質を聴くために、肉体を離れ半覚醒状態での『転視』によって『デッドマンズ・ネット』と呼ぶ冥界の視点を使っている。 永次は草薙の指導により死者の存在が遮蔽物のない影として見えていたが、その後は徐々に見えなくなっているようだ。

想師の視点には、観測者の持つ価値基準と世界像が大きく影響する描写が見受けられる。異なる基準『真実』を多く受け入れる者が、広く柔軟な視点を持つと物語の中で提示されている。太陽を撃ち落とすほどの気概があれば、それが可能な視点を見つけ出すことができるのである。

想師の能力に目覚めた状況描写があるのは、草薙、永次、真由の三名だが、永次は草薙に、真由は永次に助けられ、植物状態から脱したことをきっかけに想師の視点を得ている。草薙の師匠、天承は過去に、教育を受けていない幼子をあつめ「頭を弄る」ことで、人工的に想師を生み出そうとして失敗していたことが、第一巻の後半で語られている。

想師の能力を伴った行動は自己の肉体(イメージ)を変質させる。天承には背中に続くたてがみ、草薙には羽の前兆のような肩甲骨の突起として現れている。 九鬼は天承に「頭を弄られた」ことで、視点が『サトリ鬼の視点』に固定されていたと語っている。力を使い殺戮を繰り返すうちに、九鬼の肉体は変質し、おぞましい蛇蝎の集合体を人工皮膚で隠した姿で、草薙達の前に現れるのである。

天承の実験は脳を操作することで感覚器の受像=視点をゆがめようという試みである。

想師の修行は世界への懐疑が出発点である。 短編『ずれ』にも通じる不安をより深め、暗躍する超能力者として、エンターテイメントに昇華した。 それゆえに『想師』という物語のテーマは、素朴実在論から拡大し、自身の知覚と認識を懐疑することから始まる孤独と探訪である。

   九鬼の視点

九鬼の出生は戦国時代の武士の家系である。 若い頃に天承に見出され、想師の力で戦場を荒らし家柄に貢献したことが語られている。九鬼は、家の者とそれに縁有る者を重んじ、敵の首級を上げることが善であると、条件付きの愛情を受けて教育された一人の人間である。

『サトリ鬼の視点』を端的に説明するなら、「本音」として人の心が聞こえ、物質界に存在するありとあらゆる物が最も壊しやすい形で見える視点である。九鬼はミサイルを叩きかえしたりウイルス兵器を交渉の材料として使うことはあるが、基本的に武器を使わない。 描写から読み取れるのは、『サトリ鬼』ではすべての物象は壊れやすい有限の存在であり、壊れないものは自分の身体しかないためと考えられる。 九鬼が持つ視点は『サトリ鬼』を含めた三つしか明示されていないが、老化と「脳を弄られた」ことから視野が狭くなり、いくつも残ってないと語られている。

   ゲールの証言の信用性

ゲールは九鬼に取り憑き(?)魔術的な干渉で人類滅亡の舞台を作ろうとしていた。自身は「霊ではなくアストラル体」であるとして、草薙にそう呼ばれる度、死者との区別を促している(死霊と認識されることに不利益があるのだろうか) ゲールの能力の一部は第三巻で草薙が体験することになり、そこで詳しく描写されている。魔術を極めた知識欲の権化は、相手の意識深層に入り込み感覚を体験することができる。罠を仕掛け、同様に意識をコネクトしようとした幽螺屍奇を攻撃している。

計画の骨子を思いついてから彼はそれを一年と四ヶ月で完成させ、魔術結界の保護のない九鬼で、かつ想師の力に興味を持っていたとなれば、五年の間にそれ以上の「実験」を九鬼におこなっていたことは想像に難くないだろう。 九鬼の視点を知っているはずのゲールの発言には、ある程度信用がおける。

九鬼が死者を見ることができないのは『サトリ鬼の視点』に固定されていたためと考えられる。ならば『サトリ鬼』はなぜ死者に具体を持たせられなかったのか。また『だいだらぼっちの視点』などの転視によって、九鬼が死者を見ることはなかったのか。

   怪奇と別視点

日本において霊はかすか(幽)な存在として捉えられ、肉体のない存在ゆえに武士が無銘の刀を振り回しても通用せず、霊能を持つ神官等が祈り治めることが有効とされている。悪霊は滅するのではなく、その怨念を治めるものである。 幽霊が人を祟る際は、恨み言を言う、生者の上にのしかかる(金縛り)、不治の病にする、不幸な死を招く等、比較的間接的な行動を取るとされている。

現代の精神医学では、それらは「PTSD」に端を発する精神疾患の症状であり、幻覚、睡眠障害、免疫力低下により病に侵された様子を現したものだと、読み解かれることもある。精神医学の『視点』から見れば「霊が祟る」現象はそうした脳の病として、人々は捉えることができる。 日本の祟る霊の逸話は、重罪人や戦に携わる武士など、罪悪に深く結び付けられやすい。

殺人行為は強いストレスになる。取り分け、それが強い情念によって起こされたものほど、人は感情と共にその凄惨さを記憶に刻み付けるのである。

   小まとめ ・ 切り捨てた可能性

利己殺人は、相手の無力化を求める存在否定である。 九鬼は霊の存在をも否定するため、それを見る『視点』を切り捨てた可能性もある。

九鬼は依頼とは別に、超能力者や霊能者を殺して回っている。九鬼自身の口からは力に酔う者たちへの嫉妬のような感情であると語られるが、死者への恐怖を内に抱えているのではないかと、幽螺屍奇が指摘している。霊能者は霊の存在を肯定する者たちである。 首級を上げても「本音」で罵倒され続け、家柄と決別した時に、九鬼は自身一人のための殺戮を始める。

九鬼が利己殺人をおこなった時点で、それが存在否定として有効になる『真実』を選択し、霊を見ることが叶わなくなった。そうした解釈も可能ではないだろうか。

 

黒贄礼太郎のケース

   前提

黒贄礼太郎は、性癖(本来の意味で)として殺人をやめることがない。そして霊を恐れる。その恐怖は、幽霊探偵の草葉を見た際に飛び上がって身を隠すほどである。その理由を「死んでいる人は殺せないので」と語っている。

   殺人の為の殺人

殺人を存在意義とする黒贄には、それを自分の利益、例えば金銭のためにおこなうのは不純とするモットーがある。 黒贄は生きている人間でも生存意欲のない者には「そそられない」と明言している。第二巻でネクロマンサーが作ったゾンビを相手にしている時には「死人相手は全く楽しくない」と本人の口から語っている。 最終シリーズである第五巻では亡者が登場する。地獄坂討伐を条件に千年間自在に復活する権利を与えるとして、冥府の王が亡者を地上に解き放っている。蘇った亡者は干渉可能な肉体を伴ったもので、それには幽霊に対するような恐怖や警戒の心を黒贄は持たない。かつて殺した強敵(?)達を黒贄は退屈そうになぎ倒す。 その際、黒贄は瑛子と悠里の亡者と再会している。

  黒贄と生活する女霊

黒贄の事務所には、時々彼が手にかけた死体がコレクションされる。多くは場面によって入れ替わるが、第一巻「髑髏」終了以降は依頼主の女殺し屋・角南瑛子の骨格標本が、第二巻の「銃と剣と生肉」以降は依頼主の少女・岸川悠里の生首の入った瓶が継続して安置されている。

彼女らは黒贄の正妻の座を争っているらしく、その声を草葉が代弁する幕間がある。また、地震で彼女らが互いを攻撃する形で倒れ、黒贄はそれを喧嘩していると言って、事務所に入れず三日間座り込んでいた場面もある。亡骸を目の届くところに置き、プラトニックな関係だと黒贄は語る。 死霊として存在しているのを認めながら、彼女らを例外として扱っているようにも見受けられる。霊として以外の恐怖を感じている時もあるが。

   草葉という幽霊

草葉は自分を「儚い存在」であると主張し、卑屈なようで強かさも兼ね備えた幽霊である。草葉は死者から復讐代行の依頼を受け行動するが、生者の協力を不可欠としている部分がある。電話で八津崎市警察に通報したり、弾薬を湿らす程度で、自ら対象へ干渉することは少ない。

彼の身体は、飛んできた瓦礫や、付けられそうになった名札ピンをすり抜けるが、地図を描いたメモ、かるた等は掴める柔軟性を持つ。雨の日にしか現世で行動できず、第四巻では地獄坂に降雨機と魔術結界で籠絡されていた。干渉する物の質量によるのか、彼自身が「干渉しようとする意志」があって初めて干渉できるのか、また別の法則があるのか、最後まで語られることはない。

草葉の探偵としての思考と行動は柔軟で、彼が能動的な意志を持っているようにも見える。しかし、そも幽霊探偵として存在すること自体が、生前の行動の延長とも解釈できる。生存意欲は薄く、いつでも消滅する覚悟で仕事を続けているために彼は「儚い存在」という言葉を使うのかもしれない。

   小まとめ・黒贄の見る幽霊

九鬼のケースでも記したが、霊は物理的な攻撃が通用せず、存在構造があやふやなものである。黒贄にとっては殺せることが平常であり、生物との最終的なコミュニケーションであるとも解釈できる。幽霊は殺せないから異常で、コミュニケーション不可能な存在であるから、怖いという考え方である。

物理攻撃が通用する、つまり殺せる亡者に黒贄は恐怖心を持たない。亡者は一度死んだ存在だが、殺せる体があり、生への執着を持っており、元気なゾンビとそう変わりない。 ちなみに、第四巻以降に登場する流動性のスライムで、ほぼ不死身に近い肉体であるはずのスライミー藤橋にも、黒贄が恐怖心を持つ場面はない。藤橋は攻撃を加えればしばらく再起できず、精神的にも幼い無頼者である。

黒贄が恐れるのは、干渉不可能な肉体の不在そのものと憶測できる。

 

真鉤夭のケース

   前提

真鉤夭もまた黒贄と同じく、性癖として殺人をやめることができない。自己嫌悪を抱える成長途上の殺人鬼である。 彼が死霊を恐れる場面はなく、霊と呼ばれる存在もある時点まで劇中には登場しない。

しかし、霊に近い存在が第三巻より登場する。

   須能の存在

須能神一は双生児のテラトーマとして産まれている。兄弟の貴行と身体を共有していた頃も意識があり、摘出手術を終える時まで、自身こそが肉体の操縦者であると信じていた。その後マルキに引き取られ、特殊な情報処理を必要とするユニオン・タンクの操者となる。

しかし、担当の研究者の独断によって実験を繰り返された結果、彼の肉体は全く残らず、霊魂とでもいう存在に成り果てたと語られている。

   肉体と思考

須能が初めて登場した際、伊佐美と意思を疎通させる様子はあるが、その時の彼の言葉は書かれない。生物の肉を媒介し新たな神経と血管を構成し繋ぎ合わせる細菌『グールズ・カンパニー』と彼は「シンクロ」し、肉体を手に入れたことで、初めて声を発するようになる。マルキ施設を破壊する直前に伊佐美と対話する。その言葉はつたない発音だが明確な意志で発せられ、荒々しい敵意に満ちている。

逃亡中、彼の言葉は変化していく。潜入の為の演技を交えているような場面もあるが、温和な調子で相手をからかうようになる。いくつもの屍に乗り換え、追っ手を殺し、最終的に人間の首から上だけを生かしたまま身体に細菌を感染させ、複数体の生ける屍を動かせることが判明する。その時点で、疲れたような気だるげな口調になり、後に登場する時もその口調で固定されている。 須能は真鉤に無抵抗な生ける屍を殺させる。最終決戦ではテレパシーを応用した『オーバーフロー』も駆使して真鉤と対決するが、野生動物を繋ぎ合わせた身体を分断され、須能は頭部を割られながら「僕は、何をやってるんだろうな」と、疲れた顔で呟いている。

現実世界では、精神が肉体に及ぼすように、肉体が精神に及ぼす影響がある。体調が悪くなれば思考力も落ち、歯のかみ合わせがずれると精神に異常を来たし易くなると言われている。身体コンプレックスを病的に意識する精神状態を醜形恐怖と呼ぶこともある。

グールズ・カンパニーを手に入れるまで須能の肉体はユニオン・タンクだけであった。彼の逃亡劇は人間の身体、あるいはそれによって得られるフィードバックへの渇望である。身体を得て解放されたことで、憎悪の念が溶きほぐされていったとも解釈できる。

逃げ延びて、他者の身体を借り続けても、その生活を続ける目的を見つけられない。それに気付いたことで、須能は疲弊を覚えたとも言える。

   小まとめ・現れないゴースト

現実でも科学野で霊魂の在処を探る研究と実験は繰り返されている。須能は現代奇譚の色合いを持った幽霊の存在とも読むことができる。科学に解体されればされるほど怪奇性を強める、自身すら捉えようのない現象である。 須能は朧幽玄の渾身の攻撃を受けても、自らが死んだ状態だと認めようとしない。彼の意識が続く限り、須能は決まった肉体を持たない生霊であるとも解釈できる。 なんであれ、須能神一は存在している。自らの在処を懐疑し問う意識だけが、彼の存在を定義している。

真鉤は死霊を目にすることはなく、恐れる描写もない。須能がおどろおどろしい肉体を持って相対したためか、真鉤自身の性格の為かはわからないが。両親の記憶や自分のために命を落とした死者に悔恨する時もあるが、それはあくまでも記憶である。

『陰を往く人』では、死霊は最後のその時までは登場しない。何故なら死霊の存在はある目的の、最終的な解決策であるためともいえる。

真鉤は最後まで、死霊を恐れることはなかった。

 

百合咲解璃のケース

   前提

百合咲解璃の存在はとりわけ特異である。 他からの干渉を受け付けず、拘置所に入りながらあらゆる場所へ移動し(存在し)殺人を続けている。草薙の目にその姿は、どの視点であっても黒い闇に映る。世界をくりぬいた人型の穴のようでもあり、鏡越しにようやく人間としての顔を認識できる。

与えられた資料によって百合咲は中学三年の夏に自死していると判明する。それは未遂ではなく完遂されたはずなのだが、その後も百合咲は何食わぬ顔をして存在している。葬儀に参列したと証言する同級生と、否定する担任教師、存在しない死亡届が、彼の経歴にひずみを残している。 百合咲解璃という人間が「変容」したきっかけは、この中学生時代の自死であろうと幽螺は憶測している。彼からは行動原理となるほとんど欲望を感じられず、機械のようでもあると幽螺は語っている。 ゲールは「アンタッチャブルな死の存在そのもの」、唯一現世に受肉した、死をつかさどる神格であると説明している。

第三巻、物語の最後に突如として投入された彼は、草薙に普遍的恐怖を与え、機械仕掛けのように世界を集約する手助けをする。

   魂の消滅

ある場面では、百合咲が殺した霊を冥界で確認できないと近江が報告している。 草薙は『デッドマンズ・ネット』の不完全性を疑うと同時に、「魂が消滅する」可能性を脳裡に描く。霊魂も永劫不滅のものではないとする定義付けが、ここでなされている。後にゲールの手によって、「魂の消滅」を明確に認識させる場面も出てくる。 百合咲が霊魂も消滅させるのか、あるいは仏教の六道のごとく冥界の階層が分かれているのか、輪廻転生か……草薙は考えを巡らせる。

   霊と神

霊という漢字には怪奇や霊魂そのものの他に、神妙なるものを示す意味も含まれている。

仏は修行し悟りを開いた人間とする一方、日本の俗語では死者を等しくホトケと呼ぶ場面もある。即物的な「死体」という忌み語を避け、対象を敬うために「ホトケ」として扱う口語表現である。その他にも死者の霊魂が守護霊になり、信仰対象として広く祀られることも珍しくはない。

そもそも日本神道の価値観において「神」とはあらゆるものに宿り、慈愛も荒々しさも兼ね備える、不変でも絶対でもない存在であった。仏教の釈迦如来を初め、キリスト教等の流入した神々ともそれらが習合され、「神」の言霊は歪みを包括したまま乱用され、今も変容しつつある。

日本において神と人間の垣根は低く設定されており、それこそ人は生きたまま言霊によって、仏にも神にも天使にも悪魔にもラベリングされる可能性がある。それは剥奪されることも容易い。

   小まとめ・殺人鬼であり幽霊

百合咲は死を通過し、死と同化した殺人鬼と幽霊の性質を兼ね持つ存在である。それゆえに死者を恐れることもない。 彼が人を無感動に殺していく理由は語られることはない。常に命あるものの傍らに存在し「なんとなく」奪っていく、気まぐれな死そのものとして百合咲は役割を果たす。

しかし、百合咲は役割を果たすだけの機械ではなく、全治全能なる存在でもない。飄々として自らの欲望をほとんど持たないが、好物であるチョコレートパフェには一定の興味を示し、食べることで干渉している。彼の数少ない欲求がそこに集約されている。彼が知りえない情報も存在し、予測できない未来もある。百合咲自身からすれば、そうでなければつまらないからである。

名前と肉体を借り、神から『人間』へ降りたためか。あるいは元々そうした神格であったか。完全なる虚無には成り切らず、世界を享楽する姿を百合咲は見せている。

 

草薙遼のケース

   前提

改めて、草薙は死者を見ることができる。 「ただの残忍で、利己的な、殺人者にすぎない」と自覚しながら、草薙は死者の存在から目を背けることができない。 ならば、草薙と九鬼の違いはなんだろうか。

   信頼

百合咲が殺した者の霊を近江が調査しているが、注目したいのは、近江が証言したその後の応対である。草薙は近江の成果に対し考えは巡らすが自らが出向くことはない。

近江は草薙と依頼主を仲介する仕事屋である。その素性は謎が多く、ファミリーレストランの奥に面談部屋を用意し、国防庁とも繋がっていることが明示されている。彼は素性がわからないまま命を落とし、その後もインターネットを駆使して冥界で仕事をしている。素性はわからないが、草薙は近江を仕事仲間として絶対の信頼を置き、彼を疑うことはない。 近江は完成した協力者であり、草薙がそう信頼することで成り立っている。近江に見つけられないのであれば、自分にも見つけられない。草薙の無為のブレーキが作用している場面である。

   懐疑

第二巻で死者として現れた九鬼の言葉は、想師の大原則を語ると同時に、その基本的な姿勢も暗に示している。

「私は眠っていたところを無理やりお前に呼び出された九鬼凍刃かもしれない。あるいは、お前の心が勝手に造り出した虚像であり、お前の力の一部なのかもしれない。どう解釈するかはお前の自由だし、両方正しいと言うこともできるな」 想師Ⅱ~悪魔の闇鍋~より

即ち、多くの視点を探すためには、まず目の前の現象から「なぜそうなったのか」を推移し、疑わなければならない。自らの『直感』のみを信じてしまえば、あるいは現象を受け流して何も思わなければ、それは視点の固定に他ならない。 狂気に陥っていた時の九鬼は『サトリ鬼の視点』に固定されており、それは世界に対する思想の固定にも繋がっていた。

草薙は、自分が目にした現象に対しては度々懐疑している。世界が滅ぼされる時も、自身の結婚式の時でさえも、草薙の心には「夢じゃないのか」という言葉がある。それほど信じられぬという詠嘆でもあるが、それ以上に彼の素質をここに見出せる。 現実と夢の境が常に曖昧なのである。

   想師の無意識

日常より夢想の中を歩くように生き、たとえ景色がモノクロームに変容しても、草薙にとって、それは無数の真実の一部である。睡眠時の夢、視点、現実を区別する肌感覚はあると信じているが、説明する言葉を彼は持たない。 草薙は常に世界を懐疑する。両親を失ってすぐ天承にかけられた「夢を見よったんじゃろう」という一言が、その姿勢に関係しているのだろうか。

現実の世界で夢は脳の記憶の整理とも、潜在意識の表れとも言われている。潜在意識は無意識とも呼ばれ、その根底は全人類と繋がっているとする説がある。 草薙は自らの無意識を蝙蝠や鳥の姿に具体化した「ナビゲーター」と呼ぶ存在を持つ。覚醒時に出来うる限り情報を集めた後、転視中は想念世界にそれを置き、行くべき場所を教えさせる。無意識は解を知っているからだ。何故か?

    操作される視点

第三巻ではゲールの計画が動き出す。持てる知識を最大限に使ってゲールは想師の本質を暴き、ひも解いている。この時点で、彼の語る言葉そのものが呪詛となっているのは明白である。 ゲールは草薙を通してであれば世界の極限を観測でき、自らが全知全能の座へ到達できると『信じる』。幻術師を利用し、感覚を操作することで草薙の肉体の制御を奪う。草薙は「見ること」しかできない状態になる。

かつて一度目は幽螺屍奇に、二度目はヌーネに、草薙が他者に身体を操作される状況はあったが、どちらも意識を失っている(入れ替わっている)状態であった。しかし、第三巻では草薙の意識は明瞭で、現象から目を背けることができない。

遡って、草薙は第二巻の中で多くの事件と死者に遭遇している。遭遇しながら手を出さず、やり過ごす事が多い。死者との会話には生命エネルギーを消費する。それが彼の視点でのルールであり、必要のない事はしない。 だが、観察はする。 草薙は目の前に起こるすべての事象を分析し続ける。視点の柔軟さを支える強みでもあるが、それが弱点にもなる。そのためにヌーネに感化されて正気を失ったり、ゲールの呪詛を抵抗なく聴き入れてしまうのである。

魔術や精神世界の知識、草薙が知りえない情報等を与えるゲールの言葉に嘘が含まれることはない。だが、それは無数の中から編纂された真実であり、偏向によって相手を操作することが可能である。ゲールは出すべき情報を巧みに使い、状況を操作することに長けた、まさに魔術師である。

無意識を信頼すること。世界を観測すること。それそのものが力となり世界を変容させる。想師の本質とは創造である。 ゲールは幻と現実の垣根を言葉によって破壊し、草薙の力を暴走させている。

   小まとめ・目を背けない理由

草薙は全ての真実を受け入れ、目を背けることはない。 膨大な情報を処理する上で、ひとつひとつに情動するには精神力が必要になり、結果、その視線はシニカルにならざるを得ない。

恋人の彩香は、摩耗しかけた草薙の感受性を補助している。 ドラマの登場人物にも感情移入して涙し、自分にはどうにもならないことも素直に受け止めて悲しむ。見知らぬ少年を息を引き取る瞬間まで掻き抱き、声を掛ける彩香の姿を見た時から、草薙は彼女に赦されることを渇望している。 地獄寺の犠牲者が発掘された時のように、草薙が弱者に手を差し伸べる時は、彩香のことを思い彼女の行動を想像した時である。そうしたからといって彼女が一喜一憂するはずはないが、草薙の精神内で彩香は善意の象徴を請け負っており、自分の理性を制御するバランサーでもある。草薙は自分自身のために人を助ける。

自身を冷酷だと思い込んでいる間は、冷酷になり切れていないことに他ならない。 大切な恋人と自分の周囲さえ守っていればいいのだと自分に言い聞かせていながら、草薙は苦しみながら死者の心を想像し、死に瀕した人々へ手を差し伸べている。

 

まとめ そしてあとがき

小説は、その言葉の成り立ちより「小編なる言説」であり、個人の思索の記録、他者には体験しえない感性を伝える役割を担うものである。

本文書を編纂中の現在、氏の公開作品には死霊のみが姿を現すもの、死霊そのものが生者や死霊同士に危害をなす作品もあるが、不死身の殺人鬼と共に描かれているのは本書で解説した人物達の世界である。だが、それ以外でも魂の存在、意識の在処に思いを巡らせる場面は度々登場する。魂の概念とその変容に対する深い造詣が感じられる。

魂の存在、ひいては死と向き合うことは、人間の存在、生命と向き合うことである。死に対する恐怖は種の絶滅を避ける本能的恐怖でもあり、未知の恐怖でもある。 恐怖を越えた先に、豊沃な知識の土壌があると信じ、意識はその先へ向かう。我々の意識が時に心を切り刻むような疑似体験を求めるのは、生の感覚を再確認する行為である。

死者を生産する殺人鬼と、すでに死した存在である死霊は対照的でありながら近しさを与えられている。人を殺すことしかできず悲しむ鬼は、同類の死霊と居る時にだけ心を休められるのかも知れないし、行為を省みる時に鬼は、死霊へも目を向けなければならないのかも知れない。 次の引用は氏のウェブサイトの「前置き」の一節である。

『私の小説には残虐な表現が多数含まれています。 伝説の勇者が大きな剣を振り回しながら誰も殺さない、或いは無残な死体を見せないような作品は徹底的に間違っていると私は考えています。 剣を振り回すことを奨励するのなら、その結果として何が起こるのかもしっかり見せておかねばならないのです。』 狂気太郎.x0.com 前置き及び人間の悪意について より

剣の犠牲になった者の無念も、死に対する情動も、結果のひとつではないだろうか。

本書を書く上で、思索の野を開拓して下さった原作者と、名を出せなかった数々の著作物に心より敬意を表する。

         二〇一五年九月十四日 塩漬鰯
         二〇二五年六月十日追記

参考資料
  鬼の復権 萩原秀三郎
  鬼の研究 馬場あき子
  円山応挙 - wikipedia 2025年6月10日現在 https://ja.wikipedia.org/wiki/円山応挙
  江戸の怪談にみる死生観 佐藤弘夫
  「呪い」を解く 鎌田東二

参考狂気太郎著作
  想師
  想師Ⅱ~悪魔の闇鍋~
  想師Ⅲ~創世二人羽織~
  殺人鬼探偵
  殺人鬼探偵Ⅱ
  殺人鬼探偵Ⅲ~哲学入門~
  殺人鬼探偵Ⅳ
  殺人鬼探偵Ⅴ~ちょっと世界滅ぼします~
  ブラディ・ハイウェイ~愛の条件反射~
  陰を往く人
  陰を往く人Ⅱ
  陰を往く人Ⅲ~怪物のアイデンティティー~
  陰を往く人Ⅳ~流星雨~
  唯一絶対超絶究極大殺戮神